二度目の傷には、痛みなど無いはずだった。
そんなものを感じる場所は、とっくに麻痺しているのだから。
いつもならば宿泊客の数人はいるはずのロビーには、今日に限っては珍しく人影が見えなかった。既に探索帰りの冒険者達も宿や拠点へ引き上げてゆく時刻だ。ここアーマンの宿も外から見る者が在れば、ほとんどの部屋に煌煌と明かりが灯っているのが見えるだろう。
どうやら少し時間を外した、と思いながら、ミュルメクスはソファの端に腰を下ろす。人の話し声でも聞けば少しは気がまぎれるかと思ったのだが、どうやらほとんどの客は自室に引き上げた後らしい。あてが外れはしたが、会話したい気分ではなかったから、居ないなら居ないで構いはしない。
ふ、と息を吐く。勝手に漏れた溜息は、予想外なほど虚ろに重たく、ロビーの床に沈んでいった。
部屋にいても特にすることもないので下りてきてはみたが、そうしてみたところで、結局手持ち無沙汰なのは何も変わりはしない。
武具の手入れには飽きたし、何か趣味事でもやるにしても――例えばありきたりに読書だとか――長旅を越えてきた身はその手の道具を持ち合わせていなかった。かといって路上にいるのは酔漢ばかりのこの時間帯、あてもなく街に繰り出せるほど、自身が街の歩き方に明るくない自覚はある。
――いつもなら、
ふと脳裏を掠めた思考を、ミュルメクスは形になる前に頭を振って追い払った。この思考は、あまりにも不毛だ。
解っているのに、考えまいとするのとは別の場所が耳元で囁く。
あのまま彼の望む『距離』を保っていれば、『いつも通り』で居られたのに――と。
ミュルメクスはまるでどこかが痛んだように眉を顰める。力を込めた唇が何かを堪えるように僅かに震え、――けれど何一つ言葉は紡がずに、彼は目を伏せた。
欲しかったのだ。触れたかった。そうして確かめたかった。それ以外の確かめ方なんて知らなかった。
今だってそうだ。触れたい。触れた肌の温度が、どうしようもなく欲しかった。今すぐにだって会いたい。けれどそれが出来ないのは、
――来ないでくれ。
網膜に浮かんだのは、痛みを堪えるような、けれど空虚さを滲ませた表情。
……そんな顔をさせたかったわけではない。
目にした瞬間、胸に走った痛みと、そこからまるで毒のようにじわじわと染みてゆく苦い感情の名を、ミュルメクスは知らない。彼がそんな表情をしているのが苦しい。けれど何故こんなに胸が重いのか解らない。
手の届くところに在れば充分だと思っていた。それ以上のことを求めはじめたからだろうか。
そこまで考えて、――ふと、齟齬を感じた。
それ以上のこととは何だ?
触れたいと願うのは、ただその存在を確かめたいが為に過ぎない。近くに、手元にあるのだと知りたいだけだ。
一体何が欲しいというのか。
考えたところで、方々へと散らばった今の思考から答えを導き出せるわけもなく、彼は浅く息を吐いて伏せていた双眸を開いた。
夜とはいえ、至る所に照明の設えられた室内の明るさに一瞬奪われた視界が戻る。――ふと、ミュルメクスは己のすぐ横にうっすらと影が落ちているのに気付いた。ついで、背中合わせに置かれたもう一つのソファが小さく軋む音。宿の客が戻ってきたのだろうか。或いは自分と同じように下りてきたか、いずれにしても、こんな位置に座ることもないだろうに。――そう思って僅かに視線を上げかけて、それより一拍先んじて声がした。
「よお。……こんばんは」
ミュルメクスは目を見張る。他の誰より望んでやまない声に、弾かれたように振り返った。
そんなものを感じる場所は、とっくに麻痺しているのだから。
いつもならば宿泊客の数人はいるはずのロビーには、今日に限っては珍しく人影が見えなかった。既に探索帰りの冒険者達も宿や拠点へ引き上げてゆく時刻だ。ここアーマンの宿も外から見る者が在れば、ほとんどの部屋に煌煌と明かりが灯っているのが見えるだろう。
どうやら少し時間を外した、と思いながら、ミュルメクスはソファの端に腰を下ろす。人の話し声でも聞けば少しは気がまぎれるかと思ったのだが、どうやらほとんどの客は自室に引き上げた後らしい。あてが外れはしたが、会話したい気分ではなかったから、居ないなら居ないで構いはしない。
ふ、と息を吐く。勝手に漏れた溜息は、予想外なほど虚ろに重たく、ロビーの床に沈んでいった。
部屋にいても特にすることもないので下りてきてはみたが、そうしてみたところで、結局手持ち無沙汰なのは何も変わりはしない。
武具の手入れには飽きたし、何か趣味事でもやるにしても――例えばありきたりに読書だとか――長旅を越えてきた身はその手の道具を持ち合わせていなかった。かといって路上にいるのは酔漢ばかりのこの時間帯、あてもなく街に繰り出せるほど、自身が街の歩き方に明るくない自覚はある。
――いつもなら、
ふと脳裏を掠めた思考を、ミュルメクスは形になる前に頭を振って追い払った。この思考は、あまりにも不毛だ。
解っているのに、考えまいとするのとは別の場所が耳元で囁く。
あのまま彼の望む『距離』を保っていれば、『いつも通り』で居られたのに――と。
ミュルメクスはまるでどこかが痛んだように眉を顰める。力を込めた唇が何かを堪えるように僅かに震え、――けれど何一つ言葉は紡がずに、彼は目を伏せた。
欲しかったのだ。触れたかった。そうして確かめたかった。それ以外の確かめ方なんて知らなかった。
今だってそうだ。触れたい。触れた肌の温度が、どうしようもなく欲しかった。今すぐにだって会いたい。けれどそれが出来ないのは、
――来ないでくれ。
網膜に浮かんだのは、痛みを堪えるような、けれど空虚さを滲ませた表情。
……そんな顔をさせたかったわけではない。
目にした瞬間、胸に走った痛みと、そこからまるで毒のようにじわじわと染みてゆく苦い感情の名を、ミュルメクスは知らない。彼がそんな表情をしているのが苦しい。けれど何故こんなに胸が重いのか解らない。
手の届くところに在れば充分だと思っていた。それ以上のことを求めはじめたからだろうか。
そこまで考えて、――ふと、齟齬を感じた。
それ以上のこととは何だ?
触れたいと願うのは、ただその存在を確かめたいが為に過ぎない。近くに、手元にあるのだと知りたいだけだ。
一体何が欲しいというのか。
考えたところで、方々へと散らばった今の思考から答えを導き出せるわけもなく、彼は浅く息を吐いて伏せていた双眸を開いた。
夜とはいえ、至る所に照明の設えられた室内の明るさに一瞬奪われた視界が戻る。――ふと、ミュルメクスは己のすぐ横にうっすらと影が落ちているのに気付いた。ついで、背中合わせに置かれたもう一つのソファが小さく軋む音。宿の客が戻ってきたのだろうか。或いは自分と同じように下りてきたか、いずれにしても、こんな位置に座ることもないだろうに。――そう思って僅かに視線を上げかけて、それより一拍先んじて声がした。
「よお。……こんばんは」
ミュルメクスは目を見張る。他の誰より望んでやまない声に、弾かれたように振り返った。
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( 2010/06/06)
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